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歴史探訪・信長を妻として支えた「濃姫」とは?

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その人生は謎だらけ。信長を妻として支えた「濃姫」とは?

室町時代から安土・桃山時代にかけて活躍した日本を代表する戦国武将の1人・織田信長。かつて「カリスマ性」を生かし「天下統一」を目指した信長は生涯で正室・側室含め9人の妻をもうけたことで知られ、男子11人から12人、女子が12人と約20人の子どもをもうけた「子だくさん」でもありました。今回はその信長の妻の1人として彼を支えた女性・濃姫(のうひめ)について見ていきましょう。

朝倉氏との和睦条件として政略結婚

濃姫は美濃国(現在の岐阜県南部)の戦国大名・斎藤道三(さいとうどうざん)の娘で、母は道山の正室であった小見の方(おみのかた)。
濃姫の生まれた年については不明と言われていますが、美濃国における名家、豪族を扱った史書・軍記『美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)』では1535年(天文4年)の生まれとされています。

その頃の美濃国では大きな動きがあり、1541年(天文10年)頃に父・斎藤道三は守護・土岐頼芸(ときよりのり)を放逐、兄弟を殺害して美濃国の国主に。
しかし濃姫が9歳となった1544年(天文13年)、追放された土岐頼芸が尾張の織田信秀を頼り、これによって斎藤氏は織田氏と戦うことに。
この戦いは斎藤氏にとって厳しいものとなり、軍の過半が討ち取られたうえ稲葉山城の城下を焼かれる状況。
これに加えて頼芸の兄・頼武を支援していた朝倉勢が接近したことから斎藤氏は織田、朝倉家と和睦することに。

こうして和睦を結ぶこととした道山は、織田家との和睦条件で後の織田信長である信秀の嫡男・吉法師丸と娘を結婚させる契約を結びます。
さらに1546年(天文15年)に朝倉孝景と和睦する際は「土岐頼芸が守護職を頼純に譲る」条件で娘を頼純へ嫁がせることとし、このときに嫁がせたのが当時11歳の濃姫であったと言われています。
危機的状況では「こうするしかない」のでしょうね。

しかし守護となった夫・土岐頼純は『美濃国諸旧記』によると1547年(天文16年)8月の大桑城落城の際、あるいは同年11月に突然亡くなったと言われており、濃姫は夫の死によって実家に戻ったとの話も。
はっきりしたことはわかっていませんが、人生は運命に翻弄されることになっていますね。

信長との結婚・謎に包まれたその後

そんな濃姫が再び結婚するのは1549年(天文18年)。
この年2月24日に織田信長の元へ嫁ぐことになります。
この時濃姫は数えで15歳。
こうして結婚した信長との間に子どもはいなかったと言われていますが、戦国時代の伊勢国の出来事をまとめた軍記物「勢州軍記(せいしゅうぐんき)」では信長が1575年(天正3年)に側室・生駒吉乃(いこまきつの。
生駒殿とも言う)との息子・信忠を濃姫の養子にしたとの記録が存在。
ここでも人物像は全く見えてきませんね。

その後の濃姫については『美濃国諸旧記』から記載が途絶えることとなり、斎藤家の菩提寺・常在寺に父・道三の肖像を寄進したと記されたのを最後に歴史の記録から姿を消すことに。
こうして歴史から姿を消したことによって亡くなった時期は全く分かっておらず、菩提寺や戒名も現在までわからず。
最期についての事実がわからないところは「ミステリアス」な雰囲気がしますね。

濃姫と関係するエピソード

死にはいくつかの説あり

生涯がミステリアスなものとなっている濃姫ですが、死の真相については有名な説が存在します。
1つは岐阜県岐阜市不動町にある「濃姫遺髪塚」の説明板から推測できる説で、こちらに「1582年(天正10年)6月1日の京都本能寺の変の折、織田信長公と共に討死に、その時に家臣の1人が遺髪を持ってこの地へ逃れ来て埋葬したもの」と記載されることから、信長が命を落とした「本能寺の変」で信長と最後まで一緒にいたとの説。
ここで亡くなったとすればおよそ47歳で亡くなったことになります。

しかし一方では安土・総見寺に所蔵される織田家の過去帳「泰巌相公縁会名簿(たいげんしょうこうえんかいめいぼ)」に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」とあり、この「信長公御台」が濃姫であるとの説も。
こちらの説であれば濃姫はおよそ78歳まで生きていたことになり、信長と共に「本能寺の変」で亡くなった説に比べて約30年長く生きたことになりますね。

信長との関係・信長と離縁説もあり

信長と結婚した濃姫は、信長との関係で意志の強さを見せたことも。
これは戦国時代の公家・山科言継(やましなときつぐ)の日記「言継卿記(ときつぐきょうき)の1569年(永禄12年)7月27日」に残されたもので、斎藤氏を倒した信長が斎藤義龍の妻に義龍後家が所持する壺を譲るよう迫ったところを拒否、どうしても欲しがるなら「斎藤家の人々と命を絶つ」と言ったとされています。
信長ほどの人物に面と向かって意見を言うとは、これが事実であれば信長の妻に適任と言えますね。

その一方で信長との間には「離縁説」も存在しており、信長の側室・吉乃が懐妊(1556年(弘治2年)頃)した頃に織田家を追放され、母方の叔父・明智光安の明智城に身をよせたとの説も。
これには道山が亡くなったことによって「政略結婚の意義」を失ったために返されたとの説があり、9月19日に稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けて城が落城する前に明智一族と運命を共にしたと言われる説も存在。
もともと「政略結婚」として結ばれた仲ですからわずかなきっかけで関係が壊れることはあるでしょうが、ここもはっきりとした資料がない以上謎と言えますね。

父・道山から渡された刀

濃姫は織田信長の元へ嫁ぐときにあるエピソードを残しています。
このとき父である斉藤道三は濃姫に一振りの懐刀を与えて「信長はしっかりしていないと言われているが、信長がおかしなことを考えたときはこの刀で刺せ」と伝えたのです。
彼らが生きていた時代は戦国時代、自分の命が狙われることも多い厳しい時代ですから、「いざというとき」のために渡しておくのは考えられることですね。

しかし刀を渡された濃姫が放った一言は驚くものでした。
渡された後に「それは分かったけど、もしかしたらこの刀で父上を刺すことになるかもしれません」と言い放ったのです。
この時代は血のつながった者であっても敵と味方がいつ変わるかわからない時代。
道山は「自分が斬られる」ことを覚悟していたのかもしれませんし、濃姫もそのような時代背景を理解して言い放ったのかもしれませんね。

濃姫の家族

マムシと呼ばれた父・斎藤道山

斎藤道三は1494年(明応3年)ごろに山城国・乙訓郡(おとくにぐん。
現在の京都府)で生まれたとされ、11歳の頃に京都・妙覚寺で得度(とくど。
僧侶となるための出家儀式)を受け「法蓮房」の名で僧侶に。
その後「松波庄五郎」と名乗って油商人の娘と結婚した道三は油の行商人となり、販売時に「油を注ぐときに漏斗を使わず一文銭の穴に通す。
油がこぼれたらお代は頂きません」と言って油を注ぐパフォーマンスで人気者に。

その後油を買った武士から「油売りの技術を武芸に注げば立派な武士になれる」と言われ、槍と鉄砲の稽古を積んで武芸の達人に。
そして美濃守護土岐氏小守護代・長井長弘の家臣になり父・長井新左衛門尉が亡くなると、道山へ家督が譲られることに。
そこでは道三が「長井家の惣領・長井長弘を殺害して長井家の名を乗っ取った」と言われており、ここから「まむし」のあだ名で知られるように。

こうして力をつけた道山は1538年(天文7年)、美濃国守護代名の斎藤利良(さいとうとしなが)が病死すると斎藤家を継ぐことに。
1542年(天文11年)には主君・土岐頼芸へ攻め入り、頼芸と子どもの土岐二郎を尾張へ追放。
これによって美濃国の主となった道山は有名戦国大名の仲間入りを果たすことに。
一商人の身からから大きな出世ですね。

その後道山は1548年(天文17年)に娘の濃姫を織田信長へ嫁がせ、織田家の支援を受けて美濃を完全制圧・安定させることに成功。
こうして美濃を収めた道山は1554年(天文23年)、家督を嫡男・斎藤義龍(さいとうよしたつ)に譲って隠居しますが道山が義龍の廃嫡を考えたことから義龍は反逆。
家臣のほとんどが義龍に付いた状態で1556年(弘治2年)4月に義龍軍と道三軍は戦いますがここで道山は戦死。

濃姫の母・小見の方

斎藤道山の正室で濃姫の母とされる小見の方は、美濃国明智長山城主・明智光継(あけちみつつぐ)の娘として1513年(永正10年)に誕生。
明智光綱(みつつぐ)の妹でもあり、本能寺の変を引き起こした明智光秀は甥にあたると言われています。
小見の方は1532年(天文元年)に当時の長井規秀(のちの斎藤道三)に嫁ぎ、1535年(天文4年)に濃姫を出産。
その後も孫四郎、喜平次、斎藤利治をもうけます。

その後1551年(天文20年)3月11日に37、38歳で病気により帰らぬ人になったとされていますが、彼女の死についても別の説が存在。
1527年(大永7年)から1576年(天正4年)の50年に渡って書かれた山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』には、1569年(永禄12年)8月1日付の日記に「信長が本妻の姑(小見の方)に礼を述べるため会いに行く」との記述があり、これが実話であれば亡くなったとされる年から18年以上生き延びたことに。
濃姫と同様に死の真相はわからないことになりますね。

道山とはのちに対立・斎藤義龍

1527年(大永7年)7月8日に道三の長男として生まれた義龍。
1554年(天文23年)に道三が隠居すると跡を継いで美濃守護代に就任、斎藤氏の家督を継ぐことに。
しかし道三は義龍のことを認めておらず、ほかの子どもである孫四郎、喜平次らを溺愛するように。
こうした冷たい対応を受けた義龍は父の政策などに不満を持っており、道三が義龍を廃嫡(はいちゃく。
家督相続権を失わせること)しようと企て両者の関係は険悪に。
義龍は「俺に任せたのはアンタだろ」とお怒りですよね。

こうして父と険悪な関係になってしまった義龍は1555年(弘治元年)、叔父とされる長井道利と謀って弟の孫四郎・喜平次らを殺害させ、1556年(弘治2年)には長良川にて道三と大戦。
道三の勢力を圧倒して道三を討ち果たすことに(長良川の戦い)。
その後は貫高制に基づいた安堵状(あんどじょう。
主君が家臣の武士に知行の保証をする際に出した文書)を発給、宿老(しゅくろう。
鎌倉時代以降の武家の重臣)による合議制を導入する政策を実施しました。

また京都の将軍・足利義輝より「一色氏」を称することを許されると改名を果たし、1558年(永禄元年)に治部大輔(じぶたいふ)、1559年(永禄2年)には幕府の相伴衆(しょうばんしゅう。
宴席などに将軍の相伴役として同伴するもの)に任命。
1561年(永禄4年)には左京大夫(さきょうのだいぶ。
京都の民政を司った「左京職(さきょうしき)」の長官)に任じられますが、同年5月11日に急死しています。

斎藤家の菩提寺・常在寺

常在寺(じょうざいじ)は岐阜県岐阜市にある寺院で、正式名は「鷲林山常在寺(しゅうりんざんじょうざいじ)」。
1450年(宝徳2年)に美濃国守護代・斎藤宗円(さいとうそうえん)の子で土岐家の守護代・斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が京都・妙覚寺から世尊院の僧・日範を招いて建立。
戦国時代に入り斎藤道三が美濃国主になると、この寺に寺領を与え保護・発展。
斎藤道三以降は斎藤氏3代の菩提寺として知られるようになります。
現在の寺院では通常入館料が150円ですが、毎年4月の第1土曜日に開催される「道三まつり」の2日間は無料開放。
それににあわせて「斎藤道三公追悼式」も営まれています。
住所:岐阜県岐阜市梶川町9

人生のほとんどが謎に包まれた人物

今回取り上げた「濃姫」は斎藤道山の娘であること、信長の妻であったこと派若手いますが、生まれた年から生活ぶり、どのようにして亡くなったのかなどほとんどが謎に包まれた人物。
今後新しい人物像が発見されるかはわかりませんが、そうした「ミステリアス」な人物像も歴史を知る上では面白いところですね。

(引用:wondertrip)


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